小松法律事務所

戸籍法第107条1項の氏の変更が認められる場合-祖父母の氏への変更は?


○「民法上の氏と呼称上の氏の違いに注意-認識不足でした」の続きです。
一人娘と結婚しましたが、男性も一人息子のため氏は男性の氏を称し、一人娘の家の氏を継ぐ人が居ないので、その夫婦の成人した子供が一人娘の親即ち祖父母の氏に変更したいと言う相談を受けました。祖父母はいずれも死去して養子縁組はできません。このように亡くなった祖父母の氏を継ぐためという理由で、氏の変更が認められるかと言うとかなり難しそうです。

○戸籍法第107条は、「やむを得ない事由によつて氏を変更しようとするときは、戸籍の筆頭に記載した者及びその配偶者は、家庭裁判所の許可を得て、その旨を届け出なければならない。」と規定されています。
この「やむを得ない事由」とは、一般にその氏を継続することが社会生活上著しい支障をきたす場合とされています(南敏文編著『改訂初めての戸籍法』218頁以下)。
例えば
①難読、珍奇な氏、他人との区別がつかないなど、その氏の継続を強制することが社会観念上甚だしく不当であると認められる場合
②通称氏を長年使用し、その氏の使用を認めないと社会生活上著しい支障をきたすと認められる場合(通称氏を使用する理由、その使用期間等考慮)
③婚氏の続称の届出期間経過後に、その婚氏に変更を認めないと社会生活上著しい支障をきたすと認められる場合(届出期間内に届出をしなかった事情も考慮)
等が考えられますが、個別の事案毎に家庭裁判所が判断しますと解説されています。

○この解説では、亡くなった祖父母の氏を継ぐと言う理由だけでは、「氏の継続を強制することが社会観念上甚だしく不当」、「その氏の使用を認めないと社会生活上著しい支障をきたす」とは認められませんので、家庭裁判所は、この理由だけでは氏の変更を認めてくれないはずです。

○裁判例を探したら廃絶家の氏を復活したり、祖先の氏に復することのみを目的とする氏の変更は認められないとの昭和59年7月12日大阪高裁決定(判タ537号222頁)がありました。以下、紹介します。

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判   旨
一 抗告の趣旨と理由

 抗告人ら代理人は、「原審判を取り消す。抗告人らの氏を『中居』と変更することを許可する。」との裁判を求めた。
 その理由は、別紙記載のとおりである。

二 当裁判所の判断
 氏は名と一体となつて人の同一性を表示する称号であつて、戸籍編成の基礎をなし、一般社会生活の基礎となるものであるから、これを容易に変更するときは、一般社会に多大の影響を与えるものである。したがつて戸籍法107条1項は、やむを得ない事由がある場合に限り、家庭裁判所の許可を得て、その変更をなしうるものと規定するのであり、右にいう「やむを得ない事由」とは、氏が珍奇・難解・難読で、他の者に読むことが困難で、社会生活上著しい困惑と不便を与える場合とか、同姓同名者がいるため混同され社会生活上著しい支障があるような場合のように、当人にとつて社会生活上氏を変更しなければならない真にやむを得ない事情があるとともに、その事情が社会的客観的にみても是認されるものでなければならない場合をいうものと解せられる。

 廃絶家の氏などを復活したり、祖先の氏に復することのみを目的とする場合は、右にいうやむを得ない事由にあたらないといわなければならない。

 抗告人らが主張するような家督相続の経緯や祭祀承継があつたとしても、それが抗告人らの改氏を認容すべき「やむを得ない事由」にあたらない。そうすると抗告人らの本件各抗告はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、主文のとおり決定する。
 (小林定人 坂上 弘 小林茂雄)

抗告の理由
一 抗告人河村正保は、別紙家族系図に示すとおり、父中居正一、母中居当(河村市郎の四女)の二男であり、抗告人河村花子は同人の妻、抗告人河村正威は両人の長男であり、また抗告人河村典子は河村正威の妻である。
 なお抗告人河村正威は、現在国立国会図書館に勤務している。

二 抗告人河村正保は、叔父河村康彦の死亡により、明治40年1月12日、同人が4歳の時、同人の意思に関係なく、また同人の両親の反対にもかかわらず河村家の選定家督相続人となつた。
 一方、中居家は抗告人河村正保の兄であつた中居正治が戸主となつたが、昭和20年6月1日大阪空襲の際東区東雲町にて被爆し、兄一家は全員死亡した。このため中居正治の母中居当が中居家の戸主となり、右旨が昭和21年8月3日届け出られた。そして抗告人河村正保は申居家の二男であるため、中居家の家督相続人に指定され、昭和21年8月3日届け出された。ところが新民法が昭和23年1月1日施行され、また戸主たる母中居当が昭和24年8月2日死亡したため河村正保は中居家を継承することができなかつた。すなわち、本来中居家の長男正治が死亡し、母中居当が家督相続しても当時70歳余りの老人であり、かつ女性であつたため同人が隠居し、河村正保が中居家の家督相続人となり、中居の氏を称すべきであつたにもかかわらず、指定家督相続人となつたことで安心したため、新法の施行により家督相続人たる地位を失うことになつたのである。

三 これまで述べてきたような事情があるため、母中居当が死亡して以来、抗告人らは中居家の祖先の祭祀を継続して主宰し、初代以来の過去帳を守るとともに、紋付の紋にも中居の紋を使用してきている。すなわち、抗告人らは、中居家の仏壇を守り、墳墓の管理を戦後ずつと行なつてきており、中居家の菩提寺「長松院」の役員を戦後ずつと勤め、また長松院の僧侶に祖父、祖母、兄家族の命日に戦後毎日読経してもらつている。さらに抗告人河村正保の長男河村謙介が死亡した際にも中居家の菩提寺「長松院」の僧侶に横浜まで来てもらい、葬式をとり行い、以後中居家の者として毎月命日にはお経をあげてもらつている。

 逆に右のような事情のため、河村家を家督相続したといつても、相続の実体たる仏壇、墳墓、財産は相続しておらず、抗告人らは一貫して中居家の家屋敷に住んでいる状況である。

四 さらに、これまで述べてきたような状況から抗告人河村正威は、「中居」の氏を称するにいたり同人の最近の論文「財政再建と行政改革」(ジュリスト増刊総合特集「日本の政党」有斐閣、NO35)においても「中居」の氏を称している。

五 以上のように、被告人らが現在使用している「河村」の氏を「中居」の氏に変更することは、実質的に中居家の家産や家名を継承した抗告人らにその形式をもあわせ、かつ抗告人らの社会経済活動上の実体にも沿うものである。